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「計画と無計画のあいだ」読了

読み終わって、1週間経ちました。

周りに最近読んだという人がけっこういる、ということがふだんはあまりないこともあって、さらに、周囲の評判とわたし自身が感じたことに差があって、感想の書き方にすこし悩んでいました。めんどうくさいから、書かないでおこうかなとも思いました。
でもその差は、10年以上勤めた大企業を退職してもうすぐ6年経つわたしが折につけ感じていて、どうにかしたいと思ったり、どうにもならないとあきらめていることそのものでもあるので、一度、収拾がついていないなりに文字にして、後日、読み返してみようと思います。

計画と無計画のあいだ---「自由が丘のほがらかな出版社」の話

三島邦弘 / 河出書房新社





ミシマ社の出している本を読んだことはないけれど、それに込められている思いは本物だと思いました。読者に届けられるべき「熱」の存在を思い続けていることはすばらしいというか、すごい、です。
そういう意味で、ミシマ社がよい本を出す出版社である、と言えます。きっとこれから本屋さんで「お、ミシマ社だ」と見つけたら手に取ってしまうでしょう。

ただ、この本を読んで、わたし自身は終始冷めていました。

そうなってしまった理由はわかっていて、領収証の宛名のくだりとか、「決算て、なんだ?」とか、株式会社の最低限守るべきルールを知らないで会社経営という試合に出た人、という認識を最初のほうでしてしまったのがいけませんでした。
いつもは最前線にいるのに、たとえば税務署から指摘を受けたら、「わたしは数字のことはわからなくて」「税理士に任せていました」って言って逃げるんだよな、こういう社長は。「全部秘書がやりました」っていう政治家と一緒だよ、というのが著者についての第一印象(すみません)。
(最後のほうで「最低限のルールとして「きっちり」している」という記述が出てきたときは、うわー、そう言う!って思いました。)

それから、著者が起業する前に勤めていた会社を大企業のステレオタイプとして話を進めるのは不愉快でした。「そんなのその会社だけだよ」「たまたまあなた自身がそうだったってだけじゃん」って突っ込みたくなることが多すぎです。そんな著者のいう大企業と比してミシマ社は、という言い分は説得力に欠けました。

あとは、「原点回帰」と何度も出てくるのですが、そもそも「原点とは何か」をもっとゴリゴリ突き詰めてみせてほしいと思いました。そこをはっきりさせるプロセスがわたしは知りたかったです。「原点回帰ってなんだろう」じゃなくって「原点ってなんだろう」にしてほしかった。せめて、章の最初に著者が思う「原点」をはっきり定義づけしてくれたら、もやもやしなかったかも。

ここからは、この本の内容というより、わたしが近年思っていることです。

著者が会社勤めをしていたときの様子を読んで、「会社でそれぞれの部署がどのように機能して一つの会社を回しているのか」を体感できないまま、著者は会社を辞めてしまったのではないかと想像しています。
自分の部署や上司との問題を「会社の体質」として考えているようだけれど、実際には「会社の体質」という大げさなものとは相関していなくて、コミュニケーションで解決できたかもしれない。「コミュニケーション」は、「根回し」とか「社内政治」とかに言い換えられるものですが、それが「できる/できない」の問題だったかもしれない、と思いました。

この「できる/できない」というと語弊がありますが、それは個人の好みによるもので、能力ではないと考えています。それなのに……

根回しができる人は、それを一種の美学としているように思います。
そして、根回しができない人は、それを正しい自分を押し殺すことだとしているように思います。

できる人はできない人の仕事の仕方を美しくないと眉をひそめるでしょうし、できない人はできる人の仕事ぶりを見て「社畜」と呼ぶでしょう。

この「できる/できない」の互いを(なぜか)さげすむ傾向は、多くの人に(どちらか一つが)必ずあるようです。
できる=大企業で働く人と、できない=フリーランスや小規模の組織で働く人、両方の立場になってみて、わたしはそう感じています。

今は、双方のさげすみを感知して、双方とも理解できることが、ときどきつらいです。
「計画と無計画の間」を意地悪く読んだのは、わたしが「できる」の色眼鏡をかけた結果だと自覚しています。でも、意地悪な気持ちを抑えることはできなかったことがわたし自身とても残念です。わたしにも「さげすむ傾向」があったということですから。
逆に、会社勤めをしていたころの友人たち(他の大企業で働いている)と話をしているときに、彼らはわたしの今の所属(ブックピックオーケストラという固有名詞)には興味を持っていない、記憶を割いていないと感じるときがあります。そういうときに一瞬、ほんとうに一瞬、「さげすみ」を感じてしまう、あるいは劣等感を抱いてしまうことがあります。

どっちつかずだから、最後の最後で、どちらにも共感しきれない。
ほんとうに双方が「自分にはできないことができる人(たち)」と敬意を払えるようになる日は来るのかな。
そのとき、わたしはどっちつかずから卒業できているのかな。どっちつかずな自分を受け入れているのかな。

そんなことを、ずっと考えています。答えは出そうにありません。

体現できるといちばんいいのかもしれない。

by takibi-library | 2012-06-03 00:19 | いつも読書  

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